つまらない話だけど

新潟2日目。

マジでビックリするくらい最高なライブだったんだけど、どう言葉にして伝えられるかはサッパリわかんないんだよな。

ライブって本当に一過性のものだから、どのライブも違った素晴らしさがあると思うけど、最高だ!!って思えるライブってなんか特別だよね。魔法だよなあ。みんな魔法使えんだよなー。

めっちゃ正直なことを言うと、1日目の席自体は花道近いし、前の方でよかったんだけど、周囲の環境としてはいいとは言い難かったんだよな。

左隣の人がまずキンブレなことに私ちょっと引いたし、ライブ中もまあよく喋るし、しかもなーんか上から目線だし(まあそういうのがカッコイイと思ってるお年頃感あったけど)、高い金払ってコイツラ何しに来てんだ?感はあった。

1組はさんだ右隣もやたら雑談するし、すぐ座ってるし、規定外団扇だしで、ノイズの多い場所だった。後ろの席の子はずーと歌ってるし、バンドでいうとこれは合唱厨に当たるのかしらね~とか思ってた。すぐ隣の女性はマナー素晴らしい人だったのが救いだった。

気にせず楽しもうとしてもノイズはあるし、その日の夜の会話では私も友達も決してその話題を出さなかったあたり、お互いの心中を察するわーって感じだった。

ただ、メンバーたちはマナー違反者に絶対にファンサしない、なんなら基本視界にも入れないスタンスなのが最高によかった。

左隣のキンブレ雑談する男なんて、健人くんのことめっちゃ呼んでたけど(けんと!って呼び捨てなのも私は腹が立っていた)、見向きもしないのが最高によかった。それでマナー悪いのに声がデカイかつレア度高い男ってだけでファンサもらえてたら、わたしの心は黒くなっていた…。

2日目が席こそ後ろでも、周囲の環境は素晴らしかったので、よっぽど2日目のほうが楽しかった。

私自身、今回が初現場なので、知らず知らずのうちにマナー違反にあたることをしてないかは、再確認しとこうと思ったし、このノイズがいかに純粋に楽しめなくなるのか、演者の原因じゃないのにどれだけ被害があるかは忘れたくないな。

あの場所にいるってことは、ただの鑑賞者ではなく、やっぱ構築者でもあるわけだ。と体感した1日目から、2日目が最高に観客も一緒になって盛り上げるライブだったのは、本当にいい意味で共有してることを実感できてよかった。

 

 つまらない話だけど、こういうの隠さないことにも意味はあると思うので。

声を上げないと変わらないことはある。ので。

自尊心

Netflixのオリジナル番組『クィア・アイ』を観た。すごく好きになった。
1話から、心が温まり、前向きな気持ちをくれる、元気をもらえる作品。


前の記事で、美しさは外見じゃないんだよ、と話をしたけど、でもじゃあ外見をまる無視できるかというと、そういうわけじゃない。
外見なんて全くの無関係!と、無意識でいられたらどんなにいいだろうと思うけど、なかなかそうできない。
わたしだって、外見で判断してることはたくさんある。何より、自分の顔のことは、そんなに好きじゃないこともある。
だからこそ、外見以外をみてよ!とより声を上げたくなるんだと思う。
外見がすべてじゃないって唱えても、どこかでずっと引け目は感じる。マーケティングホロコーストみたいなのにまんまとハマるなんて嫌だし、個々人の良さこそが美しさであって、それをひきたてる、その魅力を発揮することにこそ、美はあると思いながらも、習得は難しく、やっぱり他者の目線は違うとも思ってきた。


そういう呪いから解放されるのは、頭の中の言葉より、目の前の姿だ。


スーパーヒーローが平凡な外見だとして。腕力や跳躍力、超人的パワーを持っているのに、スーツとかTシャツにGパンとかで戦うより、ヒーローコスチュームの方が強くなれるきがしそう。(なんとなくワンパンマンのサイタマを思い浮かべる)
コスチュームに筋力増強が備わってるわけじゃなくても、鏡の前に立つ、ヒーローっぽい自分が心を強くしてくれるような、鼓舞してくれるような感覚。


上手く言えないけど、外見を好きになるって、自分の良さを映えさせるって、魅力をひきだすって、自分を愛するってことなんだ。自尊心。
言葉の持つ力だって信じてるし、大きいと思うけど、自分に似合うものを着る、もっと自分の良さを引き出してくれるものを身につけるのって、すごく晴れやかなことなんだ!と思った。


こういう変身番組は日本でもよくあるけど、あんまり好きじゃなくて。
変身前は、外見のことマイナスなように言うし、変身後も外見の良さこそ人の評価軸みたいな感じだから。
この番組は会ったときからずーっと、その人のどこがステキか、あなたのこういうところステキね!ってずっと褒めてて、もっと引き出したいわ!!ってプラスを加えてくれる、丸っきり変えるというより、よさを引き出す感じなのと、教養担当の人が、彼らの心のケアもして、心ごといっしょに連れてくところがものすごくいい。
だって、1番大事なのは本人の気持ち。
そこにきちんと寄り添えることが、笑顔を導いてると思うんだよなあ。


あなたはすてきなのよ!隠さないで!
プリティーハッピーな世界!


女性らしいって言うのは、花柄のワンピースが似合うってことだけじゃない
キュートもあればセクシーもある
自分のことを卑下する言葉を並べたくなったら何度でもプラスな言い換えを思い出して
自尊心は、自分を愛することは、昨日今日で身につくことじゃない
らしさ、に縛られてるのは、何も日本だけじゃないこと、黒人らしさや宗教の問題、いろんなカテゴライズやステレオタイプ、固定概念、先入観がそれぞれの社会にあって、たくさんの人が苦しんできてる。
立ち上がった人がいるから、対抗した人がいるから、少しずつ手に入れられた自由がある。
もう護られるばっかりの立場じゃないなって思うよ。


東京大学の祝辞もとてもすてきだったなあ。
たくさんの事件、ニュース、テレビ番組、周囲の人の発言を見聞きして、教育の敗北だなって思うこと増えてたけど、トップとして謳われる大学の祝辞が保守的ではないことは希望だなって思う。


諦めないって決めたから。まだまだ道の途中だし、やっと始まったかもって思うよ。
ここまでやってきたから大丈夫。
ゆっくりでも、それは後ろに下がってるんじゃなくて前に進んでるって、すごく気持ちを支えてくれる。

 

素晴らしい旅の途中

「美しい人とはどんな人か?」
「自分らしく生きている人」
「自分のやりたいことに正直で、自分の力でそれを切り拓いていく人」
「自分の良さをわかっていて、それを上手に生かしながら生きてる人」
「強い自信と優しさを備えている人」

https://sheishere.jp/voice/201902-mino/
minoさんの書かれた素敵な記事に寄せて

 


私は、日本生まれ日本育ちだけど、容姿を美しいということがほとんどない、というか、世間的に用いられる意味合いで用いたことがあまりない。
わたしにとっての「美しい」は、その人の個性、これまで積み重ねられてきたその人だけの時間経験を感じられることに「美しい」と思う。
だから、外見(特に顔)を見て「美しい」と言える基準、はかり方がわからないから、言わずにきた。
高校生くらいまで、女子の容姿を「カワイイ」とジャッジする方法がずっとわからず、カワイイとは何なのか長いことわからなかった。
高校3年、とりわけ大学生になってから、「外見ジャッジ」を身につけるようになったのは、男女の恋愛関係への接触もあるかもしれない。
今はわりと外見ジャッジを自分よりカワイイか、そうじゃないか、を第一印象ではしてしまうので、やめたいなと思う。
(第一印象以降は、顔パーツだけではなく、表情や言葉、何より笑顔は誰でもカワイイな!と思えるようになってくる)
これは主に恋愛市場における私的市場価値としてのジャッジ何だと思う。もっと言えば、「女として男に恋愛対象にされる外見」の度合い。
この物差しを用いると、恋愛コンプレックスを抱えているわたしは、息のしづらい感覚になる。
自分に引け目があるから、「カワイイ」という言葉を用いることには気をつけているつもりで、顔面というよりも、仕草や表情についてカワイイは用いるようにしている。
自分のコンプレックスを刺激しないためでもあるし、同様のコンプレックスを持っている人を迂闊に傷つけないこと、またカワイイ顔の階級を作りたくない(先入観、刷り込みの回避)というのも含んでいる。


ただあなたはあなたであるだけで美しい。唯一無二なのだもの。


けれど、男性に対してはこれを用いることがまだまだできない(外見ジャッジが色濃い)。
これは、男性と関わる(内面を知る)ことが女性に比べて少ないことが大きいのかもしれない。また、自分が男性に対して薄れたものの苦手意識がまだあるからかもしれない。
ジャニーズというアイドルグループを、そのまたSexyZoneという「顔がいい」と言われるグループの、そのまた「顔面人間国宝」というキャッチフレーズのある勝利くんを推している私は、綺麗事並べておいて結局顔で選んでるのか?なんて自問もする。
確かに引力はある、惹かれた要因に顔立ちもきっと含まれてた。でも、彼がたとえ今の顔じゃなくなっても、なかったとしても、彼の生き様を思想に惹かれて、好きになって愛したと思う。
顔を見て惹かれる芸能人やモデルはたくさんいるけれど、顔の好みだけでは好きでい続けることはないなと気づく。


THE NOVEMBERSの小林さんが、「自分の中に美しいものが存在しないと思い込むのは、ただの怠慢です。」とツイートしたことがあった。(2016/8/28)
同感したし、彼の美意識がやっぱりすきだなとも思った。
美しさはあなたがあなた、わたしがわたしである、集結なのだと思う。


金繕いみたいに自分の弱さもコンプレックスも受け入れて愛していること、合わせて全部をもって原石のような輝き。
書きながら、映画「耳をすませば」で西四郎さん(天沢聖司くんの祖父)が月島雫さんに原石の話をしたシーンを思い出した。

マリウスくんが、「みんなの違いやみんなの欠点を間違いとしてみるのではなくその人の個性としてみる」という言葉にも近しい意味合いを感じる。(薔薇色の日々 2019/1/20より)

『他人と比べては傷ついて他人の目を気にして また同調 コンプレックスは最大の個性 自信なんて誰もない』(SexyZone「ゼンゼンカンケイナイ」より)

この歌割りがマリウスくんなのも、痺れるものがある。


今、改めて考える答え。
美しい人ってどんな人?

『自分の良さも弱さも知っていて、どちらとも受け入れ愛して生きる人』


良さは強み、弱さは優しさになると思う。弱さはだれかと生きるための大切なパーツに思う。強みは自分を生かすものとして(やがて人を支えるものにもなる)。
わたしはなんだかんだ必要とされると生きててよかったと思うので、誰かの弱さに手を差し伸べて、誰かを笑顔にできるときを、とても幸せに思う。これは自分のためだけの強さよりもずっと大きく朗らかな喜び。自分だけではどうしたってできない幸せのかたち。
本当は弱さこそだれかを幸せにするのかもしれない。人はだれかに手を伸ばしたいのかもしれない。そう思うと、弱さはずいぶんと美しい。
金繕いの金は、脆弱さや欠点の修復だけど、その金がきらきら光るのは欠けがあってこそ。そこに美しさは宿るのかもしれない。その美しさは自分の内部からのみでは決して生成されなかった、金が金の中では埋もれていた(映えなかった)ひと色なのなら、合わさってこそ輝ける、そういうことがきっとたくさんたくさんある。そのとき、また違った色合いが世界にも自分にもあなたにも生まれて愛しくなったりするんじゃないかな。


わたしはなによりも、自分のこの考えを愛していくだろう。
わたしはわたしの哲学の愛読者。
でも。
そろそろ、あの人の、あなたの、きみの、哲学も愛読してみたい。
世界の色彩はもっと多彩で、まだまだ見たことない色であふれてるんだろう。

 

向き合うことと見つめたくないことと

いわちの一部活動再開の報のあと、再開を見直す報があった。

最初の再開の報があったとき、友達が「早すぎて不安」と言っていたことがしみた。

焦らなくていいよ、ムリしなくていいよ、マイペースでいいよ。

同じことはそうちゃんにも思っているし、焦っていいことなんてないと思う。

自分の中に複雑な感情があるのもたしかで、そろった姿が見たい、元気な姿が見たい、という気持ちもあるけど、きみ自身が笑顔で健やかでいてくれることが大前提だからね、と思うから、信じて待つ。

しょうもない外野からの声も、なんなら同じファンでありながらずいぶんと自分本位な言い分(まあ、わたしのだって自分本位なんだけど)で、切り付けるような言葉には怒りを隠せない。

昔、自分のすきなひとたちを下げることがあった。中学生のわたしはまさしく貶し愛と言って、ほめないことを愛みたいにしてた。ただ自分が何かをほめることが恥ずかしくて、自分のすきなことをほめるのが恥ずかしくて、痒かったからだ。当時は聞き覚えなかったけど、今でいう「自己肯定感の低さ」ってやつだったんだろう。自己評価が低いから、自分のすきなものを下げて、どうにかバランスを保とうとしてた。ほめることはいいことなのにね。自分のことを肯定することだって、ずっと健全なこと。

貶し愛を見て、怒りの気持ちもあるけど、悲しくもなるし、だいたいは自分の内部の問題なんだと思う。貶し愛に限らず、たとえばアイドルが自分の期待通りの行動をしなかった場合におきるのだって。アイドルは、というか、他人は、決して「自分の都合のいい存在」ではないんだよね。わたしたちが、他人の都合のいい存在ではないように。

意志をもって存在して、自分の選択で生きていく。正解とか間違いじゃなく。覚悟を決めて、腹くくって選んだ答えに、その結果を自分が受け入れる。でもきっと1つの選択で何もかもが決まるわけじゃないから。過ちだって、数年たったって、上書きできる。

2年前くらいまで、ずっと人生を「過去の後悔を払拭するため」のものととらえてて、ずいぶんと過去に縛り付けられてた。それは友人関係であったり、家族関係であったり、仕事についてもだったけど、やっと2年前に自分にとって大きな後悔を払拭できて、それは同じこと、というよりも、自分なりの条件ではあったんだけど。それでも、それがクリアできたから、やっと「未来のために」選択できるようになった。

そうすると、すごく前向きで、楽しくなった。

どんなふうに生きたいか、どこへ生きたいか、すごく自由で明るくて。もちろん、後ろ向きなことだって考えるけど、でも、「未来」のための選択は、ずっと開放的で明るい。そうなるまでにずいぶんとかかったかもだけど、「ここまでこれた」ことは本当に喜びだ。やっと、ここまで来れた。

 

 

ほったらかしていることを、いい加減にどうのかしないとなー。

逃げ続けたところで、そのツケは数年後の自分にかえってくる。

たぶん、想像より重たいかたちで。

いわちとそうちゃんと同じ病気でも、全然もつ気持ちが違うのだ。

肉親だからという理由もあるけど、なによりわたしは彼にほとんど感謝がない。愛もない。

振り返れば、彼のおかげさまで幼少期は自分に我慢を強いてきた。

絶対に勝てない相手とのけんか、泣いたところで「そんなことくらいで泣くな」と言われた現実。

だれも助けてくれないなら、自分が武器を持たないといけないと子どもながらに思ったこと。

自分勝手なのがオトナはかわいいのか、親戚からもかわいがられていた。なにかと手間のかかるから、親だってずいぶんと構っていた。

わたしは言われてる最低限のことはやるから、わたしのやりたいことに口出しをするな、という気持ちで勉強はそれなりにやってきたし、与えられてきた彼とは違い、塾に行きたいことも、高校も、大学も、自分で選んできた。頑固になってきた部分もあるけど。

埋められない穴を満たすために、わたしは家の外につながりを求めた、学校が友達が部活が大好きだったし、本当にあの頃のわたしを支えてくれたのは家の外の人たちだった。もちろん親のおかげなこともたくさんあるけど、それはオトナになってからわかったことが多い。中高生だった当時のわたしは、本当に家の外が居場所だった。

おかげさまで、経済的な自立もできて、家も出れた。社会的立場はいつの間にか彼を追い越したのだ。コツコツと積み上げてきた努力は、わたし自身を守ってくれるようになった。

となったところに、また新たな問題として彼が降り立つ。病気だったら可哀想で、これまでのこと免罪符になんの?なんなくない?挫折には同情もするけど、でも自分がやってこなかったことの、当然の答えじゃないの?ねえ、がんばってきたわたしから、搾取すんの?本当に気持ち悪い。なんでこんなふうに縛られないといけないんだ。

「逃げ切るしかない」

知り合いが言った言葉に、ああでもまだ、その決断をしきれないわたしは、捨てきる選択をできないわたしは、ようするに、「まだなにかできる手がある」と思ってるのだ。

はったつしょーがいだ、と自称する彼に、とっとと調べに行けよとも思ってるけど、とある番組の「困った子じゃなくて、困ってる子」という言葉に、これは小さい頃にどうにもできなかったことの行きついた先だったのかも、と思うと、彼個人がすべてわるいとは言い切れないと思えてもくるからだ。何ができるか、何ができないか、どうしたらできるか、どのくらいの距離感で、どの程度の支援をするか。

親が実家に帰るたびに、変わらないことを言うのにもハキケがするのだけど。まっじで生産性ないし、思考停止やん。本当にそういうとこ、変わらないなーって思うけどさ。親は逃げ切ったら(つまり命つきたら)それでおしまいで、それまでどうにか生活みりゃいいわけだけど、わたしはそうはいかないんだ。

わたしの人生を、邪魔されたくない。

そのために、結局、わたしが向き合わないといけないんだね。あーやだやだ。

やだけど、未来のわたしのためだよ。未来のわたしを守るためだよ。未来のわたしとわたしの大切な人たちを守るためだよ。

これで、あーだこーだ口出しすると、一気に親も縋ってき始めるから、そういうとこもハキケする。あーあ。頼れるってわかった瞬間に縋ってくるの、本当にきもちわるい。あーげろげろ。立てよ。自分の足で。

本当に、急にね、ひざついて腕のばして服のそでつかんでくるような感覚なの。

そうならないように距離はとって、言葉も発していかないとな。

 

まとまりないなあ。まあいいか。

100年先も愛を誓うよ

One Loveと明日の記憶を聞きながら通勤を続ける今週。

 

日曜日

ニ*コイのエンドロールをみて、KTTの『愛、屋鳥に及ぶ』を思い出したり、撮影時期に24htvやツアーが重なってたこと、たくさんのことが急にリンクし出して、わけもわからず感極まって涙が出た。

全部、ひとつひとつ、花びらみたいに美しくって、それが作品をみて繋がって、健人くんから花をもらったような、健人くんが1つの花を咲かせたようにさえ思えた。

ブコメだし、楽しいエンドロールにどうかしてる!!情緒不安定か!!と思いつつも、でもすごくいい雰囲気の撮影現場も伝わってきて、健人くんのどこまでも包みこむような愛を感じたのだった。

一緒に働いたことあるスタッフさんの名前を覚えるとか、共演する役者さんの作品を見ててどれが好きか言えるとか、今回の映画にしてもワイさんと話したことをブログで書いてたりとか、ほんとうに抜かりないなあって、仕事に抜かりないって思ってたけど、

そういうの全部、健人くんの作品に対する愛で、自分と関わるすべてのものへの愛のかたちが、そういうふうに現れてる気がしてきた。

作品は彼の血肉となるみたいに、作品にもまた彼の血肉を分け合うみたいな、感覚がした。

だから愛してねって、彼と繋がるわたしたちもまたその一部になりうるような感覚だった。

 

………☆…………☆

永遠なんてどこにもないけど、永遠にしますって言った男の子のことを思い出す月曜日。

その言葉が彼を、彼らを縛ることにはならないでほしいし、わたしたちの存在が彼らを縛ることにもなりたくない。

けど、よけいに信じたいと思ってしまう。

 

『止めることのできない時間は惜しむためだけではなく、美しい瞬間を次々手に入れるために流れていく。』よしもとばなな

『こういう痛さこそが、星空を見あげた時のように目を開かせるのだ。これも私だけの宝、輝かしい小さい秘密の感情だ。いつか私をもっと生かす魔法になる。コトン、と箱に入れて取っておこう。暗い中でも小さく光っているだろう。』よしもとばなな

 

すごくすごく頼もしくて誠実な人たち。

ずっと5人で続けることの難しさと尊とさ、かけがえのなさ。はかりしれない。

その大きな背中を見てきた、5人はどんなふうに歩くんだろう。お兄さん5人にはなれない、ふうまくんの言葉を思い出したりもして。あらしになりたかった少年がSexyZoneになりたいと、言ったように。

追いかけていくうちに、もうすでに、少し違う扉をきっと開いてて、それから彼らだからこそみせてくれる世界があること。

最後がきてもさいごまで愛したいなあ。

 

『めぐりめぐる時代の途中で何度人を好きになれるのだろう 深く深く支え合えたなら きみのために何ができるのだろう』

『めぐりめぐる季節の途中で何色の明日を描きますか 強く強く信じ合えたなら何色の未来が待っていますか 何色の未来を描きますか』

 

アイドルってすごいなあって改めて思った

彼らのファンはすごく愛されてて

そしてファンもまた彼らを愛してて

だからあんなにも誠実で丁寧で朗らかな

会見になったんだろうなあって思ったし

1つ1つの言葉にこめられた愛があることを

アイドルを好きになったからこそ

ファンという立場を少なからず知ってるからこそ感じられたこと

幸いに思う

 

永遠はあるよ

 

12月になってしまった

月1更新を目標にしてたのに、12月も終わろうとしてる。

捻出しないとつくれないことを知った。

思ってることはあれど、まとめることができないまま。躊躇うと時間が過ぎる。

自分のメモになりそう。思いのしたためとか。

 

・ちょうど太陽や月みたいに

応援しているSexy Zone の松島くんが休職して1か月ほどたつ。

わたしにとって彼らは

ちょうど 空とか海とか 太陽とか月とか

ひとつしかないものであって

誰のものでもないし 誰のものでもあるし(海辺の天辺)

という言葉がしっくりくる存在。

だれのものでもあってだれのものでもなく(彼ら自身だけのもので)、

晴れやかに日々を迎え入れてくれる存在でもあり、闇夜を照らす一筋の月明かりみたいでもあって。

だから、できることなら、わたしたちファンが、明るく彼らを向かい入れるお日様でもあり、暗闇を照らす一筋の明かりのような存在でありたい。

たくさんもらった、もたい続けてる愛の返し方が、まだわからないまま。

ほとんど祈りのような気持ちでいる。

ここまでやってきたから大丈夫という気持ち、信じれる気持ち、焦らないでね、という気持ちを上手に言い表せないまま。ぎゅっとを聞きながら。

 

・2018 金繕い

このブログのきっかけとなった、今年のわたしのテーマは金繕いだった。

いつかほんとうに、まとめたいのだけど、パーツだけ。( )内は関連付

*KAJALLA#3 働けども働けども

砂のお城をつくる、何度も波に流される、そのたびにまたつくる、壊れる、

繰り返すうちにお城は崩れなくなる 壊されるたびに基礎をどんどん丈夫にしてたから

壊されたって何度でもつくりなおす そしたらもっと強くなる

壊されないなら自分でこわす そうやって新しいものができる

(羽生くん/基礎あってこその芸術)

 *Diego Moldes(twiitter)

「欠点や割れは不完全さや弱さの証だが、しかしまた回復力とそれまで以上の強さの証でもある」

*血界戦線

「絶望的な負い目が己を支える礎となり、痛切極まる悔恨が不退転の爪となるなら、今の君を作ったのは、あの日の挫折だ。」

*ユーリ on ICE

「何度でも生まれ変われる人間が強いのです」

ニーチェ/自分を焼き尽くすことのできない人間は新しく生まれ変わることはできません/不死鳥)

 

年齢を重ねるごとにます美しさや、今の自分が十代の自分を救うこと、

過去の憂いがいつか優しさとして人にもちいれること、

それぞれがそれぞれの人生で傷ついたり、自分の弱さをかかえながら、生きて、

かさぶたになったり、だれかとのおかげで補えることが、

金繕いみたいに特別美しく、より美しく、なるんじゃないかって。

そういう話に自分が弱いだけっていうのもあるけど、

人間に備わっている学ぶ力と、時間という不可逆なものが、老いることが、いかに美しいか。

あー!まとまらない!くやしい!

初心

久しぶりのブログ開設。

ツイッターでつぶやきはするものの、また違った文字の表現。

きっとだれも見てない、自分だけの場所と思いながら、どこかのだれかが見てくれているかも、何かいい意味で感じてもらえることがあるといいな、とも思いながら。

できるだけ等身大で続けていけるといいな。

最初の日記を(記事というより日記だ)何度も読み返すかもしれない。

とりあえず、初心として。未来の自分が読んだときに「ああ、そうだった」ってなるくらいには書いておこう。

 

■「アウトプットしたい」

いくつかあるきっけが合体したけど、なんたって「アウトプットしたい」と思ったときに、身近で思いつくのがブログだった。

社会人になってから、インプットすることは多くてもアウトプットの場が少ない。それでもいいと思ってたけど、今年(2018)はとりわけアウトプットの欲求が高まった。

インプット過多になって、自分が停滞してるような、憤りを感じたから。

アウトプットすることでリスクがないわけじゃないけど、とりあえずやってみよう。

と思い今日に至る。

考えまくるのが相変わらず癖だね。でもいいと思うよ。そうして決めた行動は、自分なりに納得いってのことだから。

 

■きっかけ

行動するまで非常に時間がかかるわたしが、やっとこさ重い腰をあげられたきっかけたち

5つの強み ①共感性②学習欲③回復志向④内省⑤収集心 より

”情報を単に蓄積し ているだけではいけません。アウトプットがなければ、インプットは停滞します。”(⑤より)

”書くための時間をつくりましょう。書くことはあなたにとって、考えをまとめて具体化する最善の方法かもしれ ません。”(④より)

”学習の進捗度を記録しましょう。もし専門分野やスキルなどの学習レベルが特別な段階に上がったなら、レベルアップしたことを祝福する時間を持ちましょう。そうした目安がなければ自分でつくってもよいでしょう(たとえば、あるテーマに関する本を5冊読んだら、プレゼンテーションを3回行ったら、など)。”(③より)

このあたりに、大いにうなづいた。最後の学習の進捗度の記録として、記事の件数で1つの祝福を設けようとも思う。手始めに「5件」。

 

もともと、Tumblrで見かけた一節から知ったサイト。
reblogされていたのは『僕たちは、一日で達成できることを多く見積もりすぎるのに対しより長い時間をかけて達成できることについては低く見積もりすぎる傾向がある』
だったと思う。
紹介されている「理想の世界」のエクササイズの、長期のゴールの設定。
1年間のGoals(英語だと複数形表記になっていた。ゴールだと1つの気がついしてしまった)を考えてみた。このGoalsについては別で詳しく書くけれど、その1つに
・アウトプットの場をつくる→ブログの開設(最低月1更新)
を掲げた。
目標を定めると、そのために行動を選択する。
自分がいかに流されるままに、行き先を考えずに現在に取り組んでいたのかも知った。

  • 「なりたかった自分になるのに遅すぎることはない」

Sexy Zone presents Sexy Tour 2017~STAGE 中島健人くんMCより。

今年最大の出会いであり、衝撃であり、祝福でもあったSexyZone。
購入した5周年のツアーDVD「STAGE」の最後のMCで中島健人くんが述べた言葉。ドキリとした。希望でもあり、叱咤にも感じた。
彼はとても読書家のようなので、検索をかけ、イギリスの作家ジョージ・エリオットからの引用かなと思っている。名言として引っかかっただけなので作品については知らないのだけれど。
"It is never too late to become what you might have been."
「なりたかった自分」と聞くと、過去形にも取れてしまうけれど、英文の「have been」を見ると、現在完了形だから、前からずっと今現在も続いてる意味合いで、よりストンと心におりた。
(卒業してから英語を使う機会はなかったものの、勉強したことはこうやって活用されていくので面白い。)
この言葉にとても救われるし、何より彼は心からそう思っている。
応援するようになって、勇姿を見ていてより感じた。
先に書いたことのなにもかも、正直なところSexyZoneに出会ってから起きた、心情の変化と行動の変化によるものだ。
ツイッターでSexyZoneのファンの方々(通称:セクラバ)のブログの面白さにも刺激を受けて始めることにした。
SexyZoneについて語りたいのではなく、考えのアウトプットの場がほしかったわけではあるけれど、彼らなしでは語れない話がいくつもあると思う。

初心とは少し違う気もするけれど、開設に至った理由は以上。
まだまだ見えてこない、なりたい自分や人生のゴール、未来への指針について、ここでアウトプットすることで整理したり、輪郭をはっきりすることに繋げていければいいなあ。