向き合うことと見つめたくないことと
いわちの一部活動再開の報のあと、再開を見直す報があった。
最初の再開の報があったとき、友達が「早すぎて不安」と言っていたことがしみた。
焦らなくていいよ、ムリしなくていいよ、マイペースでいいよ。
同じことはそうちゃんにも思っているし、焦っていいことなんてないと思う。
自分の中に複雑な感情があるのもたしかで、そろった姿が見たい、元気な姿が見たい、という気持ちもあるけど、きみ自身が笑顔で健やかでいてくれることが大前提だからね、と思うから、信じて待つ。
しょうもない外野からの声も、なんなら同じファンでありながらずいぶんと自分本位な言い分(まあ、わたしのだって自分本位なんだけど)で、切り付けるような言葉には怒りを隠せない。
昔、自分のすきなひとたちを下げることがあった。中学生のわたしはまさしく貶し愛と言って、ほめないことを愛みたいにしてた。ただ自分が何かをほめることが恥ずかしくて、自分のすきなことをほめるのが恥ずかしくて、痒かったからだ。当時は聞き覚えなかったけど、今でいう「自己肯定感の低さ」ってやつだったんだろう。自己評価が低いから、自分のすきなものを下げて、どうにかバランスを保とうとしてた。ほめることはいいことなのにね。自分のことを肯定することだって、ずっと健全なこと。
貶し愛を見て、怒りの気持ちもあるけど、悲しくもなるし、だいたいは自分の内部の問題なんだと思う。貶し愛に限らず、たとえばアイドルが自分の期待通りの行動をしなかった場合におきるのだって。アイドルは、というか、他人は、決して「自分の都合のいい存在」ではないんだよね。わたしたちが、他人の都合のいい存在ではないように。
意志をもって存在して、自分の選択で生きていく。正解とか間違いじゃなく。覚悟を決めて、腹くくって選んだ答えに、その結果を自分が受け入れる。でもきっと1つの選択で何もかもが決まるわけじゃないから。過ちだって、数年たったって、上書きできる。
2年前くらいまで、ずっと人生を「過去の後悔を払拭するため」のものととらえてて、ずいぶんと過去に縛り付けられてた。それは友人関係であったり、家族関係であったり、仕事についてもだったけど、やっと2年前に自分にとって大きな後悔を払拭できて、それは同じこと、というよりも、自分なりの条件ではあったんだけど。それでも、それがクリアできたから、やっと「未来のために」選択できるようになった。
そうすると、すごく前向きで、楽しくなった。
どんなふうに生きたいか、どこへ生きたいか、すごく自由で明るくて。もちろん、後ろ向きなことだって考えるけど、でも、「未来」のための選択は、ずっと開放的で明るい。そうなるまでにずいぶんとかかったかもだけど、「ここまでこれた」ことは本当に喜びだ。やっと、ここまで来れた。
ほったらかしていることを、いい加減にどうのかしないとなー。
逃げ続けたところで、そのツケは数年後の自分にかえってくる。
たぶん、想像より重たいかたちで。
いわちとそうちゃんと同じ病気でも、全然もつ気持ちが違うのだ。
肉親だからという理由もあるけど、なによりわたしは彼にほとんど感謝がない。愛もない。
振り返れば、彼のおかげさまで幼少期は自分に我慢を強いてきた。
絶対に勝てない相手とのけんか、泣いたところで「そんなことくらいで泣くな」と言われた現実。
だれも助けてくれないなら、自分が武器を持たないといけないと子どもながらに思ったこと。
自分勝手なのがオトナはかわいいのか、親戚からもかわいがられていた。なにかと手間のかかるから、親だってずいぶんと構っていた。
わたしは言われてる最低限のことはやるから、わたしのやりたいことに口出しをするな、という気持ちで勉強はそれなりにやってきたし、与えられてきた彼とは違い、塾に行きたいことも、高校も、大学も、自分で選んできた。頑固になってきた部分もあるけど。
埋められない穴を満たすために、わたしは家の外につながりを求めた、学校が友達が部活が大好きだったし、本当にあの頃のわたしを支えてくれたのは家の外の人たちだった。もちろん親のおかげなこともたくさんあるけど、それはオトナになってからわかったことが多い。中高生だった当時のわたしは、本当に家の外が居場所だった。
おかげさまで、経済的な自立もできて、家も出れた。社会的立場はいつの間にか彼を追い越したのだ。コツコツと積み上げてきた努力は、わたし自身を守ってくれるようになった。
となったところに、また新たな問題として彼が降り立つ。病気だったら可哀想で、これまでのこと免罪符になんの?なんなくない?挫折には同情もするけど、でも自分がやってこなかったことの、当然の答えじゃないの?ねえ、がんばってきたわたしから、搾取すんの?本当に気持ち悪い。なんでこんなふうに縛られないといけないんだ。
「逃げ切るしかない」
知り合いが言った言葉に、ああでもまだ、その決断をしきれないわたしは、捨てきる選択をできないわたしは、ようするに、「まだなにかできる手がある」と思ってるのだ。
はったつしょーがいだ、と自称する彼に、とっとと調べに行けよとも思ってるけど、とある番組の「困った子じゃなくて、困ってる子」という言葉に、これは小さい頃にどうにもできなかったことの行きついた先だったのかも、と思うと、彼個人がすべてわるいとは言い切れないと思えてもくるからだ。何ができるか、何ができないか、どうしたらできるか、どのくらいの距離感で、どの程度の支援をするか。
親が実家に帰るたびに、変わらないことを言うのにもハキケがするのだけど。まっじで生産性ないし、思考停止やん。本当にそういうとこ、変わらないなーって思うけどさ。親は逃げ切ったら(つまり命つきたら)それでおしまいで、それまでどうにか生活みりゃいいわけだけど、わたしはそうはいかないんだ。
わたしの人生を、邪魔されたくない。
そのために、結局、わたしが向き合わないといけないんだね。あーやだやだ。
やだけど、未来のわたしのためだよ。未来のわたしを守るためだよ。未来のわたしとわたしの大切な人たちを守るためだよ。
これで、あーだこーだ口出しすると、一気に親も縋ってき始めるから、そういうとこもハキケする。あーあ。頼れるってわかった瞬間に縋ってくるの、本当にきもちわるい。あーげろげろ。立てよ。自分の足で。
本当に、急にね、ひざついて腕のばして服のそでつかんでくるような感覚なの。
そうならないように距離はとって、言葉も発していかないとな。
まとまりないなあ。まあいいか。