素晴らしい旅の途中

「美しい人とはどんな人か?」
「自分らしく生きている人」
「自分のやりたいことに正直で、自分の力でそれを切り拓いていく人」
「自分の良さをわかっていて、それを上手に生かしながら生きてる人」
「強い自信と優しさを備えている人」

https://sheishere.jp/voice/201902-mino/
minoさんの書かれた素敵な記事に寄せて

 


私は、日本生まれ日本育ちだけど、容姿を美しいということがほとんどない、というか、世間的に用いられる意味合いで用いたことがあまりない。
わたしにとっての「美しい」は、その人の個性、これまで積み重ねられてきたその人だけの時間経験を感じられることに「美しい」と思う。
だから、外見(特に顔)を見て「美しい」と言える基準、はかり方がわからないから、言わずにきた。
高校生くらいまで、女子の容姿を「カワイイ」とジャッジする方法がずっとわからず、カワイイとは何なのか長いことわからなかった。
高校3年、とりわけ大学生になってから、「外見ジャッジ」を身につけるようになったのは、男女の恋愛関係への接触もあるかもしれない。
今はわりと外見ジャッジを自分よりカワイイか、そうじゃないか、を第一印象ではしてしまうので、やめたいなと思う。
(第一印象以降は、顔パーツだけではなく、表情や言葉、何より笑顔は誰でもカワイイな!と思えるようになってくる)
これは主に恋愛市場における私的市場価値としてのジャッジ何だと思う。もっと言えば、「女として男に恋愛対象にされる外見」の度合い。
この物差しを用いると、恋愛コンプレックスを抱えているわたしは、息のしづらい感覚になる。
自分に引け目があるから、「カワイイ」という言葉を用いることには気をつけているつもりで、顔面というよりも、仕草や表情についてカワイイは用いるようにしている。
自分のコンプレックスを刺激しないためでもあるし、同様のコンプレックスを持っている人を迂闊に傷つけないこと、またカワイイ顔の階級を作りたくない(先入観、刷り込みの回避)というのも含んでいる。


ただあなたはあなたであるだけで美しい。唯一無二なのだもの。


けれど、男性に対してはこれを用いることがまだまだできない(外見ジャッジが色濃い)。
これは、男性と関わる(内面を知る)ことが女性に比べて少ないことが大きいのかもしれない。また、自分が男性に対して薄れたものの苦手意識がまだあるからかもしれない。
ジャニーズというアイドルグループを、そのまたSexyZoneという「顔がいい」と言われるグループの、そのまた「顔面人間国宝」というキャッチフレーズのある勝利くんを推している私は、綺麗事並べておいて結局顔で選んでるのか?なんて自問もする。
確かに引力はある、惹かれた要因に顔立ちもきっと含まれてた。でも、彼がたとえ今の顔じゃなくなっても、なかったとしても、彼の生き様を思想に惹かれて、好きになって愛したと思う。
顔を見て惹かれる芸能人やモデルはたくさんいるけれど、顔の好みだけでは好きでい続けることはないなと気づく。


THE NOVEMBERSの小林さんが、「自分の中に美しいものが存在しないと思い込むのは、ただの怠慢です。」とツイートしたことがあった。(2016/8/28)
同感したし、彼の美意識がやっぱりすきだなとも思った。
美しさはあなたがあなた、わたしがわたしである、集結なのだと思う。


金繕いみたいに自分の弱さもコンプレックスも受け入れて愛していること、合わせて全部をもって原石のような輝き。
書きながら、映画「耳をすませば」で西四郎さん(天沢聖司くんの祖父)が月島雫さんに原石の話をしたシーンを思い出した。

マリウスくんが、「みんなの違いやみんなの欠点を間違いとしてみるのではなくその人の個性としてみる」という言葉にも近しい意味合いを感じる。(薔薇色の日々 2019/1/20より)

『他人と比べては傷ついて他人の目を気にして また同調 コンプレックスは最大の個性 自信なんて誰もない』(SexyZone「ゼンゼンカンケイナイ」より)

この歌割りがマリウスくんなのも、痺れるものがある。


今、改めて考える答え。
美しい人ってどんな人?

『自分の良さも弱さも知っていて、どちらとも受け入れ愛して生きる人』


良さは強み、弱さは優しさになると思う。弱さはだれかと生きるための大切なパーツに思う。強みは自分を生かすものとして(やがて人を支えるものにもなる)。
わたしはなんだかんだ必要とされると生きててよかったと思うので、誰かの弱さに手を差し伸べて、誰かを笑顔にできるときを、とても幸せに思う。これは自分のためだけの強さよりもずっと大きく朗らかな喜び。自分だけではどうしたってできない幸せのかたち。
本当は弱さこそだれかを幸せにするのかもしれない。人はだれかに手を伸ばしたいのかもしれない。そう思うと、弱さはずいぶんと美しい。
金繕いの金は、脆弱さや欠点の修復だけど、その金がきらきら光るのは欠けがあってこそ。そこに美しさは宿るのかもしれない。その美しさは自分の内部からのみでは決して生成されなかった、金が金の中では埋もれていた(映えなかった)ひと色なのなら、合わさってこそ輝ける、そういうことがきっとたくさんたくさんある。そのとき、また違った色合いが世界にも自分にもあなたにも生まれて愛しくなったりするんじゃないかな。


わたしはなによりも、自分のこの考えを愛していくだろう。
わたしはわたしの哲学の愛読者。
でも。
そろそろ、あの人の、あなたの、きみの、哲学も愛読してみたい。
世界の色彩はもっと多彩で、まだまだ見たことない色であふれてるんだろう。